アタシのカットは1万7000円

2018年5月13日

「アタシのカットは1万7000円なの!」
と彼女(正確には彼)はお気に入りのジタンカポラルに火を付けながら少し得意げにそう言った。カット料金が1万7000円なんて…よほどのカリスマ美容師でもそう簡単につけられる価格ではない。それで生活が成り立っているなんて、一体どんな素晴らしいカットなのだろう。美容師として興味はあるが、それ以外の人からすれば馬鹿らしいだけの話だ。芸能人か金持ちの道楽か、よほど髪の毛のこだわりがある人でないとカット料金を伝えただけで話が終わってしまいそうだ。だが彼女はそれがあたかも普通のように言い放った。まあ、嘘ではなく実際にそうなのだから当たり前なのだが…

近年美容室は飽和状態が続いている。全国の美容室の数は約23万件と言われている。コンビニがおよそ8万件と言われているのでコンビニの約4倍も美容室があることになる。これは日本国内にある信号機の数よりもはるかに多い。そこで働く美容師は50万人。赤ん坊や要介護者などを除けば、美容師1人あたりに割り振られるお客様は単純計算で50人から60人しかいない。そんな狭い市場を奪い合っているのである。そして貴重な客を最も惹きつける集客方法は昔から決まっている。そう、値下げである。まるで牛丼チェーン店のように、美容室でもカット料金のデフレが止まらない。毎年2%の物価上昇を望む政策とは真逆の方向に向かっている。ここ川口でもカット料金が2千円代の美容室で溢れかえっている。高い料金の店はなかなか流行らない厳しい状態だ。

そして美容師になるのは昔ほど簡単ではない。それなりに時間も費用もかかるし、何より根気が必要だ。2、3年通う美容師の専門学校では300万円から400万円の学費が必要だ。それから就職して一人前になるまでの5年間、給料は私の時代は1桁台のところも少なくなかった。給料が10万円超えるにはトップアシスタントにならなくてはならない。そこから毎月のハサミのローン、カット練習用のウイッグ、よそから見ればおしゃれに見える洋服代を支払う。なのでお金がなく定まった家がない半ホームレスのようなヤツがいたり、友達や仕事仲間と同居してなんとか毎月やり繰りしていたものだった。20代後半に差し掛かる頃やっとスタイリストデビューして一人前になる。そして現実を知る。カット料金2千円問題だ。

今でこそシャンプーが別料金の店も増えたが、当時はシャンプー込みの価格が主流だった。1人カットしシャンプーブローをするのには1時間はかかる。つまり1時間働いて2千円しか稼げない。当然そのまま給料になる訳もなく、2千円のうち半分以上はお店に取られる。結局手元に残るのは時給千円のアルバイト並みの手取りだ。せっかく憧れの美容師になったのにアルバイトと変わらない。ただ一つ決定的に違うのは、自分がやりたい仕事をしていることだけだった。2千円だったカット料金が5千円になれるのはお店でも一部の人だけだ。カット料金が1万円なんて、銀座や表参道にある美容室の店長クラスでないと付けられない。そのカット料金が1万7000円なんて有り得ない。

「アタシのカットは安い方よ」
彼女はムスクの香りを撒き散らしながら言った。聞くところによると上司のカット料金は彼女の倍の3万円らしい。更にヘアケア料金の他にもいくつかのチップがあるので実際はもう少し稼ぎがあるようだ。どうやら同じ美容師なのに住む世界が全く違うようだ。10年前は同じ学校に通っていたはずなのに。

彼女は言った。日本では多くの美容師がお客様の理想を叶えることを目指してしまっていると。美容室に行くと何センチカットするのかとか、どのような髪型にしたいのかを毎回細かく聞かれる。技術の良し悪しの基準がお客の理想になっているかいないか、なのだ。彼女はもうこのお伺いスタイルにうんざりなのだ。
そして彼女はフランスへ帰って行った。自分は美容師ではなくヘアデザイナーなのだと言い残して。「自分がデザインしたヘアスタイルに見合う対価を貰って当然でしょ?」もう彼女とは住む世界が違うのだった。

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※このコラムはフィクションです。

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